高校時代は「二刀流の怪物」と呼ばれ、明秀日立高校で春夏連続の甲子園出場を果たした石川ケニー選手。
卒業後は多くのプロ候補が集う超名門・亜細亜大学に進学し、1年生ながら4番を任されるなど、華々しいスタートを切りました。
しかし、そんな順風満帆なキャリアの中で、突然の「退部・中退」のニュースがファンを驚かせました。
なぜ石川ケニーは亜細亜大学を離れたのか?
この記事では、ネット上に飛び交う噂を整理しながら、本人の言葉や一次情報をもとにその真相に迫ります。
石川ケニーとは?
石川ケニー選手は2004年4月7日生まれ。
日本人の父とハワイ出身の母の間に生まれ、オアフ島で幼少期を過ごしました。
休日はサーフィンを楽しむなど自然と共に育ち、小学4年で野球を始めます。
中学時代には瀬谷リトルシニアで全国大会に出場し、高校は兄の後を追って茨城の明秀日立高校へ進学。
高校では投打でチームをけん引し、最速148km・高校通算35本塁打という圧倒的な実績を残しました。
春夏連続で甲子園に出場した実績から「次世代の大谷翔平」と呼ばれたこともありました。
亜細亜大学で1年生4番に抜擢
高校卒業後、石川選手は日本大学野球の名門・亜細亜大学へ進学。
亜大は「厳しい練習」「上下関係の徹底」で知られる伝統校ですが、それを承知で「生田勉監督の下で野球を学びたい」と入学を決めたといいます。
入学直後から非凡な打撃センスが評価され、1年春には4番打者としてリーグ戦に出場。
生田監督からも高い信頼を得ており、順調に見えた大学野球生活でした。
突然の転機、監督退任と心境の変化
しかし、春季リーグを終えた直後、信頼していた生田監督が突然の退任。
これが石川選手にとって大きな転機になりました。
本人は後のインタビューで、
「生田監督が辞めた瞬間に、自分も転学しようと思いました」
と語っています。
その後も新体制のもとでチームに残りましたが、翌春は試合出場の機会がなくなり、モチベーションが低下。
環境の変化が、次第に心の中で「新しい挑戦への意欲」へと変わっていったようです。
アメリカ挑戦のきっかけは?
くすぶっていた中で、転機が訪れます。
知人から「アメリカのサマーリーグに参加してみないか?」と誘われたのです。
サマーリーグは全米各地の大学生が夏休みに集まりプレーするリーグで、レベルは非常に高いもの。
石川選手は「アメリカの文化も知りたかった」と参加を決意し、ポートランド・ピクルスに加入。
現地では自由で積極的な野球スタイルに衝撃を受けたといいます。
「ゴロを正面で捕る必要はない。トライしたらOK、という雰囲気がすごく好きでした」
この経験を通じて、“もっと広い世界で野球をしたい”という気持ちが決定的になりました。
アメリカ・シアトル大学への編入
サマーリーグでの活躍を評価され、アメリカ・シアトル大学から正式オファー。
迷いはなく、石川選手は亜細亜大学を離れ、9月に渡米しました。
「試合に出られず、先が見えなくなっていました。
でもアメリカでは挑戦できる環境があると思いました」
現地では、投打二刀流でのプレーを継続。
英語も堪能で、指導者と対等に意見を交わせる関係性が自分に合っていたと話しています。
亜細亜大学をやめた理由
ネット上では「練習が厳しかった」「上下関係が嫌だった」など様々な噂が飛び交いました。
しかし、本人の発言を踏まえると、核心は「自分の成長環境を変えたかった」ことにあります。
つまり、“辞めた”のではなく、“次のステージに移った”。
それが石川ケニー選手の真の選択です。
亜細亜大で学んだ規律と精神力、アメリカで得た自由と挑戦心——
その両方を糧に、彼は今も進化を続けています。
まとめ
石川ケニーが亜細亜大学を離れた理由は、単なる「退部」ではなく、
「環境を変えて挑戦する」という前向きな決断でした。
名門で鍛え、異国で磨き、再び日本の舞台へ。
その姿は、これからの若いアスリートたちに「キャリアは自分でデザインできる」というメッセージを投げかけています。
厳しさも、挑戦も、すべてが糧。
彼の歩む道が、次世代のスポーツ界の新しいモデルケースになるかもしれません。
