「市川團十郎」という名前は、日本の伝統芸能である歌舞伎界において、最も権威ある名跡の一つです。江戸歌舞伎の「荒事(あらごと)」を確立した名門・成田屋の当主が代々受け継いできました。しかし、その輝かしい歴史の裏では、歴代の團十郎たちが数奇な運命や壮絶な病と闘ってきた事実はあまり知られていません。歌舞伎ファンならずとも心揺さぶられる、歴代團十郎の「死因」と、それにまつわる背景を詳しくご紹介します。
十二代目市川團十郎の死因とは?
近年で最も記憶に新しいのは、2013年2月3日に66歳で亡くなった十二代目市川團十郎(本名:堀越夏雄)です。彼の死因は肺炎でした。
しかし、この「肺炎」は、彼が長年にわたり闘い続けてきた急性前骨髄球性白血病という難病がもたらした結果でした。
闘病生活の詳細
十二代目が白血病を発症したのは2004年5月のことでした。当初は「かぜによる体調不良」として舞台を休演しましたが、精密検査の結果、白血病と診断されました。
それからの彼の人生は、病との壮絶な闘いの連続でした。
- 2004年: 白血病が発覚し、抗がん剤治療や自家末梢血幹細胞移植といった治療を受け、同年10月には舞台復帰を果たしました。
- 2008年: 病が再発。実妹からの造血幹細胞移植(ミニ移植)を受け、再び長期の休養に入りました。
- 復帰、そして精力的な活動: 幾多の困難を乗り越え、彼は舞台に復帰。その不屈の精神は多くの人々に感動を与え、全国骨髄バンク推進連絡協議会の会長に就任するなど、社会貢献活動にも力を入れていました。
最後の舞台、そして静かな旅立ち
病状は一進一退を繰り返しながらも、十二代目は舞台への情熱を失いませんでした。しかし、2012年12月、京都・南座の顔見世興行を「体調不良」で休演したことが、最期の予兆となりました。
年が明けて2013年1月には「肺炎の兆候がある」として、3月に出演予定だった舞台の中止を発表。そして2月3日午後9時59分、都内の病院で静かに息を引き取りました。
長年の抗がん剤治療や移植手術の影響で免疫力が極度に低下しており、最終的に肺炎が命取りとなったのです。彼の著書『團十郎復活』には、416日間にわたる闘病の記録が克明に綴られており、その壮絶さがうかがえます。
歴代團十郎を襲った「悲劇」
十二代目だけでなく、歴代の市川團十郎たちもまた、平穏とは言えない最期を遂げた人物が少なくありません。歌舞伎界では、これを「團十郎の悲劇」という宿命として語り継がれることもあります。
- 初代市川團十郎: 元禄17年(1704年)、上演中の舞台上で共演者の役者、生島半六によって刺殺されました。享年45歳。動機は不明のまま、半六は獄死したと言われています。
- 三代目市川團十郎: 将来を嘱望されながら、わずか22歳の若さで病に倒れ夭逝しました。
- 八代目市川團十郎: 絶大な人気を博した「江戸歌舞伎の華」でしたが、旅先の大坂で突然自殺しました。享年32歳。多額の借金苦や、歌舞伎役者としての重圧が原因だったとも言われています。
- 十一代目市川團十郎: 十二代目の父にあたる人物で、「花の團十郎」と呼ばれ一時代を築きましたが、胃がんにより61歳で亡くなりました。
まとめ
市川團十郎という名跡は、歌舞伎の歴史そのものであり、その芸の継承は血の滲むような努力の結晶です。同時に、歴代当主たちは病魔や不慮の事故、人生の重圧といった様々な「宿命」とも闘ってきました。
十二代目が白血病という現代の病と闘いながら見せた不屈の精神は、現代を生きる私たちにも勇気を与えてくれるものです。現在、当代の十三代目市川團十郎白猿がその名跡を受け継ぎ、新たな歴史を刻んでいます。
彼が「團十郎の悲劇」という宿命を断ち切り、成田屋の伝統を守り抜いていく姿を、これからも見守っていきたいものです。
